手話の歴史

日本では、明治11年(1878年)最初のろう学校、京都府立盲唖院(現京都府立ろう学校)の創立が手話の誕生につながった。



当時のろう学校は、ろう児とのコミュニケーション手段をどうしようかと模索するなかで、その有力な手段として身振りに着目した。
その時は手話というよりも、ろう者が頻繁に使っていた身振りでコミュニケーションを図っていた。

その為、地方によっては通じない身振りもあれば、通じる身振りがあって共通の身振りは数少なかった。

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ろう学校ができて。

多くの「ろう児」が集まるようになり、彼らがろう学校を卒業して成人した段階での交流が始まると、グループ規模も大きくなって、交流範囲も広がり、共通の身振りも増加していった。

まだその時は手話といえるものではなかった。あくまでも共通の身振りを増やしていっただけ。

共通の身振りが手話へ

共通する身振りの数を増やしていき、身振りを分かりやすく絵に表した手話を作るようになった。

結果、身振りの数が増えて、それを分かりやすく絵にして広い範囲で共通化して手話に繋がっていった。

手話を考案したのはだれ??

身振りに着目して、日本語を身振りで表現して、その関係を固定しようとした手話「イラスト」を考案したのは、古河太四郎

古河 太四郎(ふるかわ たしろう、弘化2年2月20日(1845年3月27日) - 明治40年(1907年)12月26日)は、日本の教育者。姓は古川とも書く。
京都盲唖院(後の京都府立盲学校・京都府立聾学校)を創設し、近代日本での視覚障害教育・聴覚障害教育の黎明期をリードした。また、鷹峯・紅葉谷庭園の前身である灌漑池をつくった。
彼の没後30年に当たる1937年にはヘレン・ケラーが、彼の創設した聾唖学校を訪問している。

Wikipediaより引用

古河太四郎はどんな人?

盲聾教育の創始者で、とても偉大な人物。

きっかけは、1873年 古河太四郎が小学教師の時、姉弟2人のろうあ児に勉強を教えていたこと。

そこで、古河太四郎が日本最初の盲亜学校である京都盲亜学院を建てた。

ろう者に対して、

  • 手話
  • 指文字
  • 発音指導

などの勉強を教えていた。そこから日本手話というのが広まった。

まとめ

古河太四郎は、最初のろう学校を建立し、日本手話を広まった。

共通する身振りの数がを増やし、誰が見ても分かりやすいようにイラストを作り共通化して手話に繋がっていった。

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